しんしんと雪が降る音だけが聞こえる夜。
そんな静かな時間には、どんなお酒が似合うと思いますか?
きっと多くの人が、あの「久保田」のような、スッと喉を滑り落ちる清らかな「淡麗辛口」を思い浮かべるのではないでしょうか。
東京の広告代理店で時間に追われていた頃の私も、まさしくそうでした。
新潟の酒といえば、キリリと冷ややかで、都会の喧騒を忘れさせてくれる透明な一杯。
それが私の故郷の酒のすべてだと思い込んでいたのです。
しかし、雪国・新潟の懐の深さは、それだけではありません。
実は、降り積もる雪の下でじっと春を待つ大地のように、米の旨味が豊かに広がる「濃醇旨口」と呼ぶべき傑作も、数多く眠っているのです。
この記事は、あなたがまだ知らない、もうひとつの新潟酒を巡る旅への招待状です。
私、田嶋湊があなたの新潟酒のイメージを心地よく裏切る、珠玉の一本へとご案内します。
この旅を終える頃、あなたのグラスに注がれる一滴は、きっと今までとは違う物語を語り始めるはずです。
なぜ私たちは新潟酒を「淡麗辛口」と呼ぶのか?
私たちの記憶に深く刻まれた「新潟酒=淡麗辛口」というイメージ。
それは決して間違いではありません。
むしろ、新潟の蔵人たちが時代の声に耳を澄まし、弛まぬ努力の末に築き上げた、輝かしい金字塔なのです。
時代の風が生んだ「新潟淡麗」という伝説
意外に思われるかもしれませんが、かつての新潟の酒は、むしろ甘口の傾向にありました。
戦後の日本が豊かさを取り戻し、人々の食生活がこってりとした洋食や多様な味付けへと変化していく中で、お酒にも変化が求められ始めます。
口の中に甘さが残るタイプではなく、食事の味を引き立てる、すっきりとキレの良いお酒。
そんな時代の要請に応えるように、新潟の酒造りは大きく舵を切りました。
この流れを決定づけたのが、1980年代の上越新幹線の開通です。
東京と新潟がぐっと近くなったことで、首都圏の食のプロたちが新潟の酒のポテンシャルに光を当てました。
彼らが見出したのは、雪国ならではの清冽な水と、厳しい冬の低温環境でじっくりと発酵させることで生まれる、雑味のないクリアな酒質でした。
「久保田」が灯した大きな光と、その先に広がる道
その象徴こそ、言わずと知れた朝日酒造の「久保田」です。
それまでの日本酒の常識を覆す、洗練された香りと味わいは、「淡麗辛口」というスタイルを不動のものにしました。
「越乃寒梅」や「八海山」といった銘酒たちと共に、新潟の酒はひとつのブランドとして全国にその名を轟かせたのです。
私も30歳でUターンするきっかけとなった一杯は、父が酌んでくれた「久保田 萬寿」でした。
あの磨き抜かれた味わいは、米と水と人が織りなす芸術の極み。
新潟が誇るべき、大きな光であることに疑いはありません。
しかし、その大きな光は、新潟酒のすべてを照らしているわけではないのです。
光が強ければ、その周りには豊かで静かな影もまた、生まれるものですから。
しかし、雪の下には無数の物語が息づいていた
近年、新潟の酒蔵では代替わりが進み、若い世代の造り手たちが新しい感性で酒造りに挑戦しています。
彼らは「淡麗辛口」という偉大な伝統に敬意を払いながらも、その枠に収まらない、多様な味わいを模索し始めました。
まるで、春になれば一斉に多様な山野草が芽吹くように、米の旨味をしっかりと感じさせる濃醇なタイプや、果実を思わせる華やかな香りのお酒が次々と生まれているのです。
その挑戦は味わいの多様化だけに留まらず、特別な日のためにこだわり抜いて造られる新潟のハイエンドな日本酒ブランドのような、新しい価値の創造にも繋がっています。
これからご紹介する一本は、まさにその象徴。
淡麗辛口という扉を開けた先に広がる、豊かで温かい世界への鍵となるお酒です。
さあ、一緒にその蔵の門を叩いてみましょう。
私の心を掴んだ一本、南魚沼の『鶴齢』をあなたに
私があなたを最初にお連れしたい蔵は、日本有数の豪雪地帯として知られる、新潟県南魚沼市にあります。
享保二年(1717年)創業の、青木酒造。
ここで、「鶴齢(かくれい)」という名の酒が醸されています。
この一杯は、私が「現場の温度」を求めて蔵に泊まり込んでいた時期に、深く心を揺さぶられたお酒です。
それは、新潟酒のイメージを根底から覆す、ふくよかで温かみのある味わいでした。
雪国の食文化に寄り添う「淡麗旨口」という答え
鶴齢の味わいを、蔵の人々は「淡麗旨口」あるいは「濃醇旨口」と表現します。
キレの良さという新潟酒らしさは残しつつも、主役はあくまで米本来のふくよかな旨味と甘み。
なぜ、この南魚沼の地でこのようなお酒が育まれたのか。
その答えは、この土地の食文化にあります。
冬、深い雪に閉ざされる魚沼地方では、塩や醤油をしっかり効かせた漬物や干物、煮物といった保存食が食卓の中心でした。
そんな力強い味わいの郷土料理に寄り添うためには、お酒にも負けないだけの旨味とコクが必要だったのです。
鶴齢は、この土地の人々の暮らしと共に、300年以上の時をかけてその味わいを深めてきました。まさに、風土が生んだ一杯と言えるでしょう。
一杯の酒を構成する、人・土地・季節の物語
私が鶴齢に惹かれるのは、その味わいの奥に、雪国の壮大な物語を感じるからです。
このお酒は、三つの要素が奇跡のように共鳴し合って生まれています。
人:杜氏の哲学と「和合」の精神
青木酒造には「和合」という社訓が受け継がれています。
飲み手、売り手、そして造り手。
関わるすべての人々が互いを思いやり、信頼し合うことで、本当に良い酒が生まれるという考え方です。
蔵を訪れると、その言葉がただの飾りではないことが分かります。
張り詰めた空気の中にも、蔵人たちの間には穏やかで温かい信頼関係が流れている。
その「人の温度」が、鶴齢の味わいに優しい丸みを与えているように、私には感じられるのです。
土地:巻機山の雪解け水という命
酒の味わいの約8割は水で決まる、と言われます。
鶴齢の命は、蔵の背後にそびえる巻機山(まきはたやま)に降り積もった雪が、長い年月をかけて濾過された伏流水です。
この水は、新潟の多くの地域で見られる軟水でありながら、適度なミネラル分を含んでいます。
このミネラルが酵母の働きを穏やかに、しかし力強く支え、米の旨味をじっくりと引き出すことで、鶴齢ならではの奥深い味わいの土台となるのです。
季節:雪室がもたらす、静かな呼吸
そして、鶴齢の物語を完成させる最後のピースが「雪」そのものです。
青木酒造は、「雪無くして我が社の酒は生まれない」と語り、敷地内には「雪室(ゆきむろ)」と呼ばれる巨大な雪の貯蔵庫を構えています。
夏でも涼しい雪室の中は、年間を通して温度と湿度がほぼ一定に保たれた、天然の冷蔵庫。
ここでしぼりたての酒を貯蔵することで、電気冷蔵庫のような急激な温度変化や振動を与えることなく、酒はまるで冬眠するかのように静かな呼吸を始めます。
この雪の力による熟成が、角の取れたまろやかさと、香味のバランスが整った見事な味わいを生み出すのです。
この一杯には、雪が溶けた音がする。
そう表現したくなるほどの、静かで清らかな時間が、この酒の中には流れています。
「鶴齢」という旅を最高にする、今宵の肴
さあ、この素晴らしい一杯を、最高の形で味わってみましょう。
濃醇な旨味を持つ鶴齢は、食中酒として抜群の懐の深さを持っています。
蔵人が愛する、地元の味との対話
もしあなたが魚沼を訪れる機会があれば、ぜひ試していただきたい組み合わせがあります。
それは、ぜんまいやわらびを醤油と砂糖で甘辛く煮付けた、山の幸の煮物。
あるいは、香ばしく焼いた油揚げに、神楽南蛮味噌を乗せた一品。
そんな少し濃いめの郷土料理の味わいを、鶴齢が持つ米の甘みがふわりと包み込み、後味をすっきりと流してくれます。これぞ、最高の贅沢です。
家庭で試す、至福のペアリング
もちろん、もっと身近な食材でも、鶴齢との旅は楽しめます。
私が特におすすめしたいのは、意外な組み合わせかもしれませんが、チーズです。
- ゴルゴンゾーラのような青カビチーズ: チーズの塩気と強い旨味を、鶴齢の芳醇な味わいががっちりと受け止め、互いの風味を高め合います。
- 生ハムやサラミ: 熟成した肉の脂の甘みを、鶴齢の優しい酸が引き立て、キレの良い後味が口の中をリフレッシュさせてくれます。
- 鶏肉の照り焼き: 甘辛いタレと鶏肉のジューシーな旨味に、鶴齢の持つ米のコクが見事に調和します。
ポイントは、少しだけ「旨味」や「塩味」がしっかりした料理を選ぶこと。
そうすることで、この酒が持つ本当の力が花開きます。
温度で変わる表情を楽しむ
鶴齢のもうひとつの魅力は、温度帯によって全く違う表情を見せてくれることです。
キリッと冷やせば、輪郭のはっきりとしたシャープな旨味を楽しめます。
そして、肌寒い夜にはぜひ「ぬる燗」を試してみてください。
40℃くらいに温めると、閉じていた香りがふわりと開き、米の甘みと旨味がより一層豊かに感じられます。
まるで、雪国の人が客人を温かい部屋に招き入れるような、そんなもてなしの心が、ぬる燗にした鶴齢には宿っているのです。
あなたの知らない新潟酒の扉が、今開かれた
今回の旅、いかがでしたでしょうか。
「淡麗辛口」という大きな光の向こう側に、こんなにも温かく、豊かな物語が広がっていたことを感じていただけたなら幸いです。
最後に、この旅の要点を振り返ってみましょう。
- 新潟酒のイメージ: 「淡麗辛口」は時代の要請に応えた偉大なスタイルだが、近年は「濃醇旨口」など多様な味わいが増えている。
- 濃醇な一本『鶴齢』: 豪雪地帯・南魚沼の食文化に寄り添い、米の旨味をしっかりと感じさせる味わいが特徴。
- 雪国の恵み: 巻機山の雪解け水と、雪の力を利用した「雪室貯蔵」が、鶴齢のまろやかで奥深い味わいを育んでいる。
- 最高のペアリング: 郷土料理はもちろん、チーズや肉料理など、旨味のしっかりした肴と合わせることで魅力が最大限に引き出される。
「久保田」に代表される淡麗辛口が、磨き抜かれた日本刀のような美しさを持つとすれば、「鶴齢」は、雪国の古民家で燃える囲炉裏の炎のような、温かさと安心感を与えてくれるお酒です。
どちらが良い、という話ではありません。
新潟という土地が持つ、懐の深さの証明なのです。
淡麗辛口という素晴らしい入り口から日本酒の世界に入ったあなたにこそ、ぜひこの次の扉を開けてみてほしい。
そこには、あなたの知らない新潟酒の、もっと豊かで、もっと人間味あふれる物語が待っています。
さあ、今宵はこの一杯を、どんな灯りの下で味わいますか?
グラスに耳を澄ませば、きっと聞こえてくるはずです。
遠い雪国の、静かで優しい呼吸の音が。


